【永田美香ができるまで②】ATCになりたい!

永田美香とは

ゆたかな心の宿るカラダを作る場の創造が大得意な、ボディーワーカーの永田美香です。

 

みんなが自分のカラダを好きになれば、この社会はもっとあったかくなる!その思いを胸に、レッスンや、セミナーを全国各地で開催し、エクササイズ動画の配信などをしています。

 

人生の節目でもある今、私という人間の足跡を振り返っています。

 

その①はこちら。

【永田美香ができるまで①】はじめに。

 

ATCって?

私は、ATCです。

ATCって聞いたことありますか?

私の人生を語る上で、この言葉が「あ!大阪南港にある、あれでしょ?」だと困るので、ここでご説明を。

 

ここで出している解説は全て、日本アスレチックトレーナー協会(JATO)のHPより抜粋しています。

 

<ATC とは?>

ATCは、教育訓練、州法、規則および規制に従って医師の指示または協力を得ながら治療またはサービスを提供する医療従事者。医療チームの一員として、ATCによるサービスには、外傷障害や疾患の予防、健康促進と教育、緊急対応、検査と臨床診断、治療介入、傷害および疾患のリハビリテーションが含まれます。 *アスレティックトレーニングは、米国医師会(AMA)によって医療業として認められています。 

 

ATCという資格は、NATAいう機関が発行するアメリカの国家資格です。

<NATAとは?>

全米アスレティックトレーナーズ協会(National Athletic Trainers’ Association, NATA)は公認アスレティックトレーナーおよびアスレティックトレーニングの職業をサポートする人々のための職能団体です。

 

最初からATCになろうとしていた訳ではないです

私は最初からATCという資格を知っていた訳ではありません。

 

それを知り、目指したのは高校3年生の時です。

それまでは、漠然と「トレーナーになりたい」と思っていました。

 

そのきっかけは、、、中2の冬@宮崎の読売ジャイアンツの春季キャンプ

 

うちの家族は、全員筋金入りの巨人ファンです。

弟二人も小学生から野球をやっていたこともあって、いつの頃からか、2月になると、みんなで宮崎は青島へ、読売ジャイアンツの春季キャンプを見に行っていました。

 

中2のあの冬も、宮崎県営球場のメイングラウンドで、選手たちがアップをする姿を追っかけていました。

 

すると、、、男性ばかりの球場の中に、ポツンと女性がいる。

記者ではない、とても親密に、私の大好きな選手たちと言葉を交わしている。

 

あんな近くにいて、カラダも触って、喋れているあの女性は、、、

「だれーーーーーーーーー!!!」

 

中2の女子にとって、憧れの選手たちに触るその女性のポジションが、キラッキラに眩しく映ったのです。

 

隣で父が、

「トレーナーさんかなんかかなー。」

という、、、

 

「私、トレーナーになる!絶対なる!」

 

と、この時に、私の夢が決まりました。

 

 

「なぜ、美香さんはATCになろうと思ったのですか?」

と聞かれます、その答えはいたってシンプル。

 

「巨人の選手に、触りたかったから。」

なのです。

なぜアメリカ留学?

「トレーナーになる」という夢を抱いたその時から、

「トレーナーになるための人生」が始まりました。

 

理学療法士を目指そうとしてみたり、

鍼灸師という職業や、柔道整復師という資格のことも知りました。

 

でも、なんかしっくりこない。

しかも、、、高校時代は大好きな野球部でマネージャーなんてしちゃったもんで、勉強そっちのけ。

 

高校3年になって「進学どうする???」って時になって、「行く大学ないね、、、」って成績であることを目の当たりにしました。

 

だけど私は「トレーナーになりたいんだ!」という夢がある

 

じゃ、どうしたらいいの?

 

ってことで、浮上したのが、アメリカ留学という道でした。

そして、あの時代はインターネットで検索なんてことはなかったので、めちゃくちゃ分厚い留学の本と、アメリカの大学の資料をわんさか取り寄せ、

 

アメリカの大学入学を斡旋してくれる、日本の学校に1年通うことになりました。

 

そうです、私にとってアメリカ留学はしたかったのではなく、そうするしか「夢を叶える」道がなかったのです。

 

今考えると、、、

今振り返ると、私はとにかく、「トレーナーになることありき」で人生を歩ませてもらいました。

 

高校に行く時も、実は私は1浪させてもらいました。

それは、「トレーナーになるため」には、大学に行かねばならぬ、、、と思っていたから、大学進学のできる高校に受からなかった1度目の受験では、進学できなかった(私の心が許さなかった)のです。

 

大学進学を諦めざるを得なかった時も、「でも、トレーナーになりたいんですけど?」って、自分の勉強不足を棚に上げて、担任に言ってました。

 

そうしていたら、アメリカ留学という道が浮上してきました。

 

「やる前提」で私は人生を歩ませてもらっていたんだと、気づきました。

 

それをさせてくれた両親に、、、改めて、感謝します。

 

 

次の記事は、、、

【永田美香ができるまで③】ラスベガスでATCに。